なぜ私は「むすび庵」をはじめたのか?
愛知県名古屋市熱田区に「むすび庵」という整体院をオープンしました。
この整体院には、誰かの役に立ちたいとか、もっと成長したいとか、より良い人生を送りたいと意欲的な人が集まってきます。
むすび庵はただの整体院ではありません。ここに集まってくる人たちは、お互いの得意な分野を活かしあって、一緒に仕事をしたり、人生について真剣に考えて切磋琢磨したりしていて、コミュニティを作っています。
共通点は「より良い社会を作りたい」という想いです。
「むすび庵」ができたのは流れのままで、ただ目の前の人のために、やれることをやってきたら自然と今の形になったということです。おそらくこれからもその原点は変わりません。
そして、その原点は、私の師匠から受け継いだものでした。そして次のバトンをつなぐために、この「むすび庵」をはじめたのでしょう。
今回はその原点と、むすび庵ができるまでのストーリーをお話ししたいと思います。その過程でケガを治したり、アトピーを克服したり、3年で全国15店舗のフランチャイズ事業をやったりする話もしますから、ただ読むだけでもあなたの人生に何かヒントが得られるはずです。
中学から大学まで陸上に明け暮れる日々
私は中学から大学まで、陸上競技の短距離をやっていました。走るのが好きだったわけではなくて、ただちょっと人よりも得意だったので、なんとなく続けてしまったのです。
しかし、大学に入学してから、ケガばかりするようになりました。特に大学2年の時には、ほとんど練習ができなくなるほどでした。
足首のねんざ、ひざ痛、肉離れ、シンスプリント、足底筋膜炎、、、足のケガは一通り経験して、そのたびに乗り越えてきたのですが、限界というほどに悪化してしまいました。
もう部活やめようかと悩みました。
けれど陸上競技は、当時の僕にとっては生き甲斐で、
それ以外に打ち込んできたものがないというくらいに、
毎日そのことばかり考えていたのでした。
受験勉強をしないで、図書館で陸上の本を読み漁り、
大学に入っては授業をサボって、
グラウンドで練習をしたのでした。
なので、それを辞めるということは、
すべてを失うというほど大きなことでした。
自分に才能がないことを認めたくなかった
できれば辞めたくない、
もっと自分は速く走れるようになるはずだ。
限界なんてないんだ、と思いたかったのです。
大学まで陸上をやっていたからといって、
決していい結果だったとは言えません。
いつも地方大会どまりで、
ただ好きだからやっていただけなのです。
陸上の中でも、特に短距離走は才能、
センスがすべてという競技です。
黒人選手ばかりのオリンピックの
決勝を見れば分かるでしょう。
けれども、そんなことを否定したかったのです。
才能がないから、自分がやってきたことは無駄だとか、
努力をしても才能がある人には勝てないと、
あきらめてしまうのが嫌だったのです。
だからケガをして、部活をやめるということは、
すべてを否定されるようなものでした。
やっぱり自分はここまでだったんだ、
やっぱり俺には才能がなかったんだ、
とあきらめるようなものでした。
部活を休んで、病院や接骨院めぐり
でも、本当にわずかな希望で、部活を完全に休んでは、
足のケガを治しに色々な病院や接骨院に回りました。
ところが全然良くならずに、さらには整体や気功、
鍼治療、カイロプラクティックなどもやりました。
だから治療に関しては、マニアというくらいに
ありとあらゆることをやりましたから、
そのおかげで「この治療っていいの?」と聞かれたら、
詳しくアドバイスでもできるようになりました笑
治療に専念をして1年を経過したものの、
相変わらず走れない日々がつづいていました。
少し良くなったかと思って、
軽くランニングをしたりするだけで、
すぐに痛くなってしまいます。
毎日アイシングとストレッチをして、
筋トレや体幹のトレーニングをして、
皆が思いっきり走っているのをうらやましく見ていました。
一冊の本との出会いで転機がおとずれる
そんなときに高校のときに読んだ、
ある一冊の本を思い出しました。
受験のために、本を読んでおこうと思ったのです。
もし受験で「心に残っている本は?」
などと聞かれるとマズイと思って。
それで、ふと立ち寄った本屋で、
いつものようにスポーツのコーナーに向かいました。
そして、目を疑うような文字を見つけました。
「100m13秒台だった中学生が半年間で10秒台に」
これは普通なら絶対にありえないことなんです。
10秒台というと、全国大会に行けるくらいのレベルです。
一方、13秒台というのは、地方大会の予選落ちレベルです。
そんな人が、たった半年間で一気にタイムを縮めるなんて、
普通なら絶対にありえないことなんです。
だって私なんて、4年かけて、
やっと2秒近く縮めることができたんですから。
それで、思わず買ってしまいました。
そして受験勉強そっちのけで読んだのです笑
常識をくつがえす奇跡のトレーニング
その内容も衝撃的なものでした。
筋トレはやってはいけない。
ストレッチも良くない。
腹筋背筋もやってはいけない。
他にも色々書かれていたのですが、
それは当時、陸上のトレーニングでは当たり前、
常識と言われていたことばかりだったのです。
普通ならデタラメだと思われるような
内容なのかもしれませんが、
言われたことをアッサリと信じてしまうタイプの僕は
「これはすごい!ぜひこのトレーニングをやってみたい」
と思ったのです。
ところが、このトレーニングは
専用の機械がないとできないというものでした。
なので、とても衝撃を残していたものの、
実践はできないでいたのです。
それを思い出して、またその本を読んでは、
これにチャレンジしてみたい、
この方法なら自分の体も治るかもしれない、
もっと速くなれるかもしれない、と思うのでした。
その場で痛みが楽になって、動きがスムーズになる
そして探してみたところ、
春日井市から岡崎市まで2時間ほどかけて、
そのトレーニングのジムに行ってみたのでした。
そのマシンを初めてやってみたときの感動は今でも忘れません。
ありとあらゆることをやってダメだったのに、
なぜかこのトレーニングをやると、痛みが和らぐ、
さらには体が柔らかくなって、スムーズに動くようになる。
これはすごい、感動して飛び上がりたいくらいでした。
帰り道、久しぶりに歩くのが楽しい、
痛みが楽で、快適、もっと歩きたい、
と思う自分がいました。
それまでは歩くのが苦痛で、
杖を持って歩いていたときもありましたから。
そして、少しずつそのジムに通おうとしたのですが、
なにせ往復4時間もかかるのです。
毎日というわけにはいきませんでした。
それで何とか近くでトレーニングが
できるところはないかと探し始めたのです。
車で10分のところに新しくジムがオープンする!?
すると以前ではなかった、
小牧市でワールドウィング小牧が
開設されるという情報を見つけたのです。
小牧市なら、車で20分ほど。
それなら毎日通える!と感動をしました。
ところが開設されるのが半年後だと書かれています。
半年だったら、もう4年生になってしまう。
それでは間に合わない。
せっかく可能性が見えたのに、もどかしい気持ちでした。
そして、そのホームページをじっくり見ていると、
その開設準備中の施設では、
整体もやっていると書かれていたのです。
整体か、、、もう何回も行ったし、
それでは治らないと思っていたのですが、
ワールドウィングを開設しようとしている先生ですし、
いつジムが開設されるか聞いてみるついでに、
整体も受けてみようかと思ったのです。
お坊さんがやっている整体院
その整体はお寺のお坊さんがやっていると書かれていました。
何だか怪しい感じがしましたが、ブログを読んでみると、
とても良いことが書かれています。
生き方というか、その先生の考え方に共感できました。
とにかく行ってみないと、
トレーニングができるのかどうかも分からない。
早速予約をとってみると、
2週間先まで予約でいっぱいとのこと。
早く行きたいのにという気持ちと、
お客さんが沢山来ているんだなという期待が
入り混じりました。
そして、その整体院に初めて行ったのでした。
たった5分の施術で痛みが楽になった
「中村さんどうぞ」
その整体の先生は、思っていたよりも少し小柄で、
何だかちょっと頼りなく見えました。
そして、問診が始まって、今までの経緯を話していきました。
色々なところへ治療に行っていたものの、
あまり話を聞いてくれないことが多かったのでした。
しかし、その先生はとても話をじっくり聞いてくれました。
そして「それは辛かったですね。大丈夫です。
中村さんのケガはきっと良くなりますよ」
こんなにもしっかりと話を聞いてもらったのは初めてでした。
そしてケガが良くなると言ってもらえたことも初めてでした。
もしかしたら良くなるかもしれない。
期待を持って、整体を受けてみると、
「え、こんなフワフワ触っているだけなの?」というくらい、
何をされているのか全然分からないような感じなのでした。
そして5分ほど経つと、
「一度立ち上がって、足踏みをしてみましょうか」
と言われました。
「あれ?、、、さっきよりも痛みが減ってます!
足も軽い気がする!」これには驚きました。
今まで散々に治療をしてきても、
その場で楽になるなんてことはほとんどなかったのです。
それがたった5分足らずで、一瞬で痛みが楽になったのでした。
再び全力疾走できるまでに回復する
これはすごい!不思議だ!
これなら治るかもしれない!と思いました。
帰り道に、はー、こんなに楽になるなんて
正直思いませんでした。
ワールドウィングのことを聞き忘れてしまうくらいに、
その日は治る希望が見えたことで感動していました。
それから10回は通いました。
正直、1回5000円以上の料金は
大学生だった私には高く感じられましたが、
ケガが治るならいくらだって支払っても良い、
もう一回走りたい、自分の可能性を信じたいと思いました。
そして、みるみるうちに痛みがなくなっていき、
私は再び全力で走れるところまで回復したのです。
ただ歩けるだけでありがたい。体に感謝。
人生で一度だって歩けなくなったことなどありませんでした。
歩けるのは普通なのです。
自分の体をムチ打って、何でもっと早く走れないんだ、
と責めることはあったものの、
感謝することなどありませんでした。
しかし、ケガをしたことで、
いかに体がありがたいのかに気がついたのでした。
そして決して歩けることは当たり前のことじゃない、
命あることは当たり前じゃないんだと気付きました。
ただ一歩一歩と、歩けることが幸せでした。
いかに速くなれるか?を考えてばかりいたのが、
もうそんなことはどうだっていい、
ただ走れるだけでいい、走れることは楽しい、
もっと走りたい、ありがたい、
そんな感動で毎日がいっぱいでした。
常識は必ずしも「正しい」わけじゃない
ずっと治らなかったケガを治すことができて、
私はたくさんのことを学ぶことができました。
当たり前だと言われていることは
決して当たり前ではないということ。
常識は正しいわけではなくて、
簡単に覆ってしまうことを学びました。
それから正しいと言われていることも、
一度は疑ってみよう、もっと良い方法があるかもしれない、
と思うようになりました。
そしてその時はまだ私が整体師になるなどとは
思ってもいないのでした。
アトピー性皮膚炎が薬を使わないで改善する?
整体に通っていて、ある文字にまた目を奪われるのでした。
アトピー性皮膚炎を薬を使わないで治すことに
チャレンジしている整体の先生の奥様の話でした。
そこには薬をやめて、アトピーを
改善しようとしていることが書かれていました。
私は小学生の時に、アトピー性皮膚炎が出始めました。
当時は「大人になるまで治らない」
「治療方法はない」と言われていました。
そして薬でコントロールするしかないと言われて、
薬を塗り始めました。
年々それがひどくなっていき、いつしか薬が手放せなくなり、
ほぼ毎日塗るようになっていました。
大人になっても治らない、
これは一生治らないのかもしれないと思っていました。
薬を使えば何とか抑えられるのですが、
見た目にもアトピーと分かるくらいに
ひどくなっていました。
アトピーの人は薬は欠かせない、
これは付き合っていく体質だと思っていました。
ところが、そのアトピーを薬を使わないで治す?
そんなことができるんだろうかと思いました。
家に帰って、インターネットで調べてみると、
確かにそのような話も書かれていました。
もう治らないのだと思っていた私にとっては、
驚きでしかありませんでした。
脱ステロイドに挑戦するも地獄の日々に突入
ケガが治った私は、
この際、すべてをリセットしよう、
きっと自分なら治せると思いました。
そして、薬を辞めることにチャレンジしたのです。
ところが、それから地獄のような日々が始まりました。
今まで薬で抑えていた症状がどんどん吹き出てきます。
あまりにかゆさを我慢できずに、肌をかきむしってしまいます。
かくなと言われても無理です。
例えるなら蚊に100匹くらい刺されたかゆさと言えば
少しは分かっていただけるでしょうか。
当然かけば肌はボロボロになります。
傷だらけになり、血が吹き出てきて、
膿のようなものまで吹き出てきました。
体は腫れてしまい、顔は一回り大きくなったようでした。
眉毛が抜けて、3分の1くらいになってしまいました。
あまりのかゆさに、夜もほとんど寝られません。
朝方までかきむしって、疲れ切ったときに
ようやく1~2時間寝られました。
包帯を巻かないと、傷に空気がしみて、痛くてたまりません。
しかし、包帯に血や体液が張り付くので、
それを変えるときは、激痛が走りました。
大学を休学して、寝たきり生活が始まる
あまりの辛さに大学を休み、バイトをやめました。
そして食事とトイレの時以外、
ベッドで寝たきりの生活になりました。
補足しておくと、これは決して、
悪い反応ではないのです。
体が今まで溜まった毒素を、
体の外に排出しようという反応なのです。
治癒しようとして起こる反応なのです。
ですが、頭で分かっていても、辛さは変わりません。
全身傷だらけの体を見る度、
一生このままだったらどうしようと不安になりました。
「このまま死んだら後悔しか残らないじゃないか」
ある日、ベッドで天井を見ながら、
もしこのまま死んでしまったら
どうしようと考えました。
自分の葬式を思い浮かべました。
今までの人生のことが思い返されました。
何であのときもっと頑張らなかったのだろう。
なぜ途中で諦めてしまったのだろう。
なぜ人にもっと優しくできなかったのだろう。
後悔ばかりが押し寄せてきました。
ちくしょう、このまま死んだら、
後悔しか残らないじゃないか。
俺はバカだ。もう今後は二度と
後悔するようなことはするものか。
そして、もしアトピーが改善したら、
これからは人のために生きようと誓ったのです。
人生の転機。整体院でアルバイトに誘われる
それからどんなに辛くても、かゆくても、
ボロボロの顔を人に見られても、
自分は自分がやるべきことを貫くんだと決めました。
不思議と辛いかゆみも気にならなくなりました。
徐々に毒素が出切ったあとに、回復しだしたのです。
そして、ふとあの整体の先生のところに
行ってみようと思ったのでした。
先生は私を見るなり、
全く別人のようになってしまった私に
驚いていました。
「もし、中村くんがアトピーを治したいのなら、
ここでアルバイトしないか」
と誘ってくれたのでした。
これは直感的にチャンスだと思いましたが、
しかし、同時に気になることもありました。
「こんなボロボロの顔で受付に立たれたら
迷惑をかけませんか?」
でも先生は
「この整体院の患者さんにも、
スタッフにもそんな風に思う人はいないよ」
と言われました。
そして「それに中村くんのアトピーが
治っていくのを患者さんが見れたら、
それは逆に勇気になるでしょう」と言われたのです。
最初の仕事は「一刻も早くアトピーを治すこと」だった
そして受付のアルバイトを始めたのでした。
まず初めての仕事は「一刻も早くアトピーを治すこと」でした。
とにかく様々な治療やグッズなどを使って見ました。
そして、受付で患者さんを見ているうちに、
悩んでいるのは自分だけじゃないんだなと気がつきました。
整体院というところは、皆それぞれ
何かの悩みや症状を抱えてきます。
そんな人たちに自分は何ができるんだろう、
どんな言葉をかけたら、どんなアドバイスをしたら、
患者さんは喜んでくれるだろう、
役に立てるだろうと思いました。
そして、ただ受付で見ているだけしか
できないことを歯がゆく感じるようになりました。
そして「先生、僕にも整体を教えてください」
とお願いしたのです。
僕も先生と同じように整体ができるようになれば、
もっと沢山の患者さんを助けられる。
もっと役に立てると思ったのでした。
大学と並行して、整体の勉強を開始する
それから大学に通うのと並行して、
整体の勉強を始めました。
一時は大学を辞めて、
整体に専念しようと思いましたが、
両親は当然反対しました。
もう4年生です。
あと少しで卒業できるじゃないかと。
そして、先生からも
「もし1、2年生だったら、辞めるのもいいと思うけど、
どうせ両立もできないようだったら、
整体師になったってうまくいかないから、最後まで行ったら?」
と言われたのでした。
大学では数学科に通っていました。
高校の教師になるのが夢で、教員の免許も持っていましたから、
試験にさえ受かれば、夢が実現するところでした。
給料も安定していて、安定した人生が送れるかもしれません。
大学卒業の日。人生で初めて感謝の涙が出てきた。
整体の勉強をつづけながら、大学に通いました。
そして、卒業式の日。卒業証書をもらうと、
不思議な気持ちになりました。
ろくに勉強はしていなかったものの、
大学の4年間はとても大きなチャレンジばかりでした。
今までのことを思い出して、
心が感謝の気持ちでいっぱいになりました。
この感謝を母に伝えたいと思い、
すぐにそのまま家に帰りました。
薬をやめていたのをあまり快く思っていない父とは違い、
母は包帯を変えてくれるのも、
すべてにおいて協力してくれたのでした。
あのとき支えがなかったら、
その前に諦めていたかもしれません。
そして、初めて母に感謝の言葉を
伝えることができたのでした。
「お母さんのおかげで、大学を卒業できました。
ありがとう」
その場で母は泣き崩れました。
「大学に行かせるのがお父さんとお母さんの夢だったから」と。
もう一箇所、行く場所がありました。
そのまま高瀬先生のところへ行きました。
車の中で、感謝の気持ちが湧き上がっていました。
抑えきれないほどの感謝でいっぱいなのでした。
そんな気持ちになったのは初めてでした。
そして、先生の前に行くと、
もう我慢することはできませんでした。
「先生、今までありがとうございました。
先生がいなかったら、僕は、、、」
その先は声も出ずに、泣き出してしまいました。
身内にさえ、そんな気持ちになったことはありませんでした。
ただただ感謝の気持ちがあふれてきました。
「本当によく頑張ったね。辛かったでしょう」
と震える声を聞きました。
顔を上げると、高瀬先生も泣いていました。
先生に恩返しをしようと思いました。
ケガを治したこと、アトピーを治したこと、
あの辛いアトピーを乗り越えたことを思うと、
どんなことでさえ無理なことはないと思えます。
当たり前だと思っていたことへの感謝、
人から大切にされるということ、
自分が救われたという気持ち、
ただただ湧き上がってくる感謝の気持ち、
それらが私の人生の転機であり、原点になっています。
会社を離れることを決意した
人の可能性を考えたときに、
どうしても会社とか、形が先にあると、
その人の可能性が引き出せないと感じました。
これは決して会社の批判をしているわけではありません。
今でも師匠や共に働いていた仲間に感謝をしていますし、自分が8年間、人生をかけてやってきた活動ですから、何の悔いもありません。
ですが、本当に目の前の人を大事にしようと思ったとき、その人の可能性を伸ばそうと思ったときに、どうしても会社が妨げになってしまうことがありました。
それは私が立ち上げた会社ではなかったからです。なので、もし自分が自由にやりたいのなら、自分のやり方を貫きたいのなら、私は会社を辞めないといけませんでした。
なので悩んだ末に、会社を辞めて、師匠の元を離れることにしました。
むすび庵を立ち上げる
とは言っても、最初から独立を考えて、仕事をしてきたのではありません。ほとんど何の準備もなく、会社を辞めたので、しばらくは大変な日々がつづきました。
これから何をやろうか、というところから考えはじめました。
整体院をやろうか、でも、今までと同じことをやっていては結局、同じ問題に突き当たるんじゃないか。
考えた末に、結局、自分が大事にしていることは何も変わらないことに気がつきました。
目の前の人のことを大事にする。縁あった人を大事にする。それだけでした。
会社を辞めて、何の後ろ盾もなくなった私でも頼りにしてくれる人は何人かいました。
その人たちに何かできることはないか、何ができるんだろうか、と考えて、まず集まれる場所から用意しました。
その人たちと一緒に話して、ビジネスの相談に乗り、人生の相談に乗り、ときには整体をして、整体の練習をして、オススメのグッズを紹介して、と自分にできるお役立ちをしようとだけ考えました。
そして、その場所に「むすび庵」という名前を付けました。
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